演劇ぶろ

ままごと「わたしの星」

演技をするって、どういうことだろう。心を込めて役になりきるとか、真似をするとかいう意味もあれば、たとえば演劇は、内容によるけどだいたい1週間ぐらいの期間があって、そのあいだは1日1〜2回、同じ会場で同じ内容の公演を行うことが多い。観にいく僕たちはそのなかで都合の良い時間に行けばいいけど、役者はその期間のあいだ毎公演おなじように身体を動かしている。公演ごとに細かい演出がブラッシュアップされていくこともあるだろうけど、同じ場所で同じだけの時間を使って同じ内容を演じること、そこには「演技」が自分のこれまでの身体を再現するという意味もあるだろう。人間は機械じゃないから、同じ動きなんてできない。だから、ズレが生まれる。でも、そのズレが生まれる不完全さこそが、裏を返せば人間の身体を感じさせる要素になっていて、壇上で演技をしている役者の身体がわたしと同じ身体を持っていることがわかる手がかりになっている。

「ままごと」の今回の公演は、登場する役者の全員がオーディションで選ばれた高校生たちで、壇上の上でも高校生の役を演じている。踊りも踊るし、歌も歌う。とっても素敵な演劇だから、すごく楽しかったし、やっぱりがんばってる高校生たちを見るとちょっと感動した。でも、そこには演劇のための発声とか、演劇のためのリアクションとか、演劇のための身体があって、高校生の彼らの身体について考えるきっかけがあまりなかったなぁと思った。別にダメだと言っているわけじゃなくて、今日観た素敵な演劇をもとに、自分はなんで演劇を観ることにハマっているのか、そのモチベーションはどこにあるのか考えさせられた。僕は、僕の身体を、誰かのなかに探しているのかもしれないと思った。 #演劇

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範宙遊泳「インザマッド(ただし太陽の下)」

役者の人たちが、泳ぐような身動きをしながら、テキストを読み上げていく。そのからだの動きはチェルフィッチュという人たちが10年前からやっている身体を思い出させるけど、この人たちとチェルフィッチュのからだは明らかに違っていて、チェルフィッチュのからだは話している言葉と関係しない意味のない身体であるのに対して、この人たちのからだは話している言葉や壁に投影される言葉を説明するための身体であるからだ。例えば、タクシーに乗るシーン。「タクシーに乗った」と言って、役者たちが舞台の上を駆け回る。例えば、「新宿にいる」と話すシーン。壁に新宿駅の写真が投影される。

それは、演出することをやめてしまった、ディテールの貧しい新宿の表現だ。そこは新宿ではないのに(だって会場は駒場東大前だし)新宿でいようとして、そのなかにわたしたちと同じからだを持った身体が立っているということに興味があるのに、舞台の上が新宿でいようとしてくれないから、そこで起こることになにも興味を持てなかった。なんか、つらかったな。この人たちの演劇は自分には必要ないから、もう観に行かなくていいや。 #演劇

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マームとジプシー「てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。」

朝、渋谷、会社のあるビルにむかうために渡る大きな横断歩道の下を、たくさんの車が通り過ぎていくのを見て、この車のひとつひとつに人が乗っていて、それぞれに生活があって、これから車に乗ってどこかへ向かうんだ、とか、思う… そして、自分もまた同じように会社へ向かう、生活する点のひとつなんだと思う。渋谷の駅を、上空 100m ぐらいから、100m じゃ足りないかもしれないけど… 上から見下ろしたら、それぞれの違いも見えなくなって、ただたくさんの点がうごめいているんだろう。

こんなことは、ナイーブすぎて、ちんこの小さな話だと思います。だから誰にも言わない(言ってるけど)。しかし、実際に自分はいつだって、そうやって自分なりに世界を見つめているつもりでいる。だから、2ヶ月に1回ぐらいのハイペースで開催されるマームとジプシーの公演は、僕にとって誰にも話せない話を聞いてもらえる、カウンセリングのようなものだ、と思う。

自分の腕に新しくほくろができたこと。そこからはじまって、友達が家出したこと。同じ街で幼い女の子が殺されたこと。さらに、ニューヨークで飛行機がビルに突っ込んだこと。そして、10年後に震災があって、どこかの街が流されてしまったこと。すべてのできごとが、わたしと関係していること。関係していると想像すること。やっぱり想像なんかできないこと… 世界とわたし、社会とわたし、自分とわたしの関係を考えることは、全然間違っていないのだと勇気づけてくれる。そういうカウンセリングだ。

僕が考えていないあいだに、ほかの誰かが、わたしと世界の関係について考えてくれている。だから、いつも号泣してしまう。なにも信じられない僕のための、これが僕なりの宗教なのかもしれない。 #演劇

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ロロ「朝日を抱きしめてトゥナイト」

お客さんがまだぞくぞくと入場してるなか、椅子に座ってはじまるのを待っていると、舞台の奥から2枚の板を直角にくっつけた台車のようなものと、どちらも20代ぐらいのふたりの女の子が登場する。ひとりが台車に乗ってもうひとりが押す、遊んでいるようなそのやりとりから、台車に乗っているのは子供で、台車を押しているのがお母さんなのかなということがなんとなくわかってくる。でも、舞台の袖にはけて同じふたりが再度登場したとき、さっき台車に乗っていたほうの女の子が台車を押す側になり、押していたほうが乗る側となって、さっきお母さんだったほうが子供のようにはしゃいでいる。そんなやりとりを繰り返していると、お客さんの入場が終わっていて、そのまま演劇がはじまる。

内容は、感情を爆発させた人たちが大声で意味不明な言葉を2時間言いつづけるというようなもので、話があるようなないような、意味があるようなないような、真面目なのかふざけてるのか、良いのか悪いのかよくわからなかった。しかもすごく席がぎゅうぎゅうで、満員電車みたいに隣の人と肩が触れあいながらひたすらじっとしていると、とにかく尻が痛くて、ほんともう我慢できないくらい痛かったんだけど、だからもう最後のほう早く終われみたいな気持ちになってたけど、最後になってまた最初の母と娘が登場する。

「ねえ、どうしてマチコはマチコなの?」
「マチコのお母さんがマチマチコだからでしょ。」
「どうしてお母さんはマチマチコなの?」
「マチマチコのお母さんがマチマチマチコだったからだよ。」

これはうろ覚えな台詞だけど、そんな感じのやりとりが延々とつづく。そして、延々とつづくやりとりのなかで、マチコとマチマチコという娘と母の関係が、あるとき逆転し、母が娘のようになり、娘がまた母のようになって、そしてまた逆転してということを繰り返していく。いったいこれはなんなんだ。

演劇が終わって照明が明るくなると、あちこちから尻が痛いという声が聞こえた。駒場東大前駅に向かうけど、足を引き摺りながら歩いてる。とんでもない目に遭ったと思った。 #演劇

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マームとジプシー「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと―――――」

みんなの記憶の最小公倍数のようなベタな食卓の風景を、舞台が回転しながら、何度も何度も繰り返し演じ続ける。時制が未来に過去に現在に、いったりきたりしながら、重なりながら、何度も何度も… 舞台の上では、木でできた細い枠が組み合わさって、駅になってコンビニになって家になる。同じように、演劇を見ている自分たちの記憶が、実家が、ばあちゃんの家が、帰ることが、誰かがいなくなることが、組み合わさって、自分が経験した食卓の風景が、それがいつまでも同じように変わらずにはいられないということに、涙がぼろぼろ出てくる。舞台の上で決められているたくさんのルールのなかで、ぴょこっとルールを越えたイレギュラーなできごとが差し込まれて、それもまた受け入れてどんどん複雑になっていく。そんな風に自分たちをアップデートしつづけていく演劇が、池袋で毎日上演されてるなんて、すごく希望の持てる話だと思う。 #演劇

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