演劇ぶろ

マームとだれかさん・ごにんめ 名久井直子さん(ブックデザイナー)とジプシー

ブックデザイナーの名久井直子さんが、自分がデザインした本の話をしている姿を、青柳いづみがひたすら演じ続ける、演劇のような、そうでないような、「作業」。途中で青柳いづみが自分自身に戻って、自分が今なにをやっているのか説明したり、自分たちはどういうことをしているのかを、とうとうと話す。名久井さんの家で録音した音を再生したり、名久井さんが好きな入浴剤(製紙工場の匂いに似てるから)を嗅いだりする、そういう時間を観た。

2つのことに心を震わされた。誰かの話を聞いたり、一緒に買物に行ってみたりして、その人のことについて知ったことから、その人を舞台で再現しようとしていること。それが、いったい何になろうと、ならなくても、作業を続けてみること。そういう予感に従ってなにかをしている人たちがいるってことが、なんだか勇気が持てる気がする。

もうひとつは、デザインをするって仕事の素晴らしさ。青柳いづみ(あるいは、マームとジプシーの藤田貴大)の言葉を借りるなら、僕だって、全然デザインやってないけど、名前だけだけど、それでもデザインすることのはしっこで、言葉の出口に立って働くことができているっていうこと、もうすこし誇りに思ってもいいんじゃないかなあって思えた。

http://mum-gypsy.com/next/post-56.php

演劇

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きのう見た菓子パンの感想

終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて

という穂村弘の短歌が好きなんだけど、だからといって実際に「終バス」に乗って「降りますランプ」に取り囲まれながら「ふたり」が眠っていても、全然ロマンティックにならないと思う。短歌の言葉は読むための言葉としてあって、フォーマットのために説明が省略されているから成立しているところがあって、実際の「降りますランプ」や「ふたり」はどんな風にあるのか、そんな詳細なディテールは必要なくて、自分たちの想像のなかの「終バス」だからロマンティックに思えるんだろう。

きのうマームとジプシーと穂村弘の共作の公演を観て、穂村弘のテキストのなかで話される1袋8本入りのチョコチップが入った「菓子パン」が実際に舞台に登場して、青柳いづみがむさぼり食べるのを見た。でも、ここでは実物の「菓子パン」を目にしても、まったくロマンティックの強度は失われていないと思った。菓子パンの袋に何も印刷されていなかったからなのか、青柳いづみの演技がそうさせているのか、それ以前にここが舞台だからなのか。いろいろ理由はあると思うけど、文字の表現が現実に再現されても、きちんとロマンティックでいてくれることに、僕たちの普段の生活のなかでも何かの模倣でないロマンティックがたしかにあるように思えて、なんだか希望が持てたなあ。 #演劇

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2014/02/15

マームとジプシーの「Rと無重力のうねりで」を観た。最初から最後までいちども登場しない少年「リョウスケ」をめぐって、みんなでリョウスケの気持ちを想像するという物語だった。
http://mum-gypsy.com/next/20142.php
あしたの14時の回で最後だけど、雪のせいで当日券も若干あるみたいです。

他者の気持ちを想像することは、できる。できるなんて言い切るのはおこがましいけど、自分なりに想像してみることは、できるとして… でも、経験したわけではないから、想像することは体に痛みが伴ったりしないから、忘れてしまう。

スクリーンに海の写真が投影されることで、舞台の上は海だということになる。砂浜でリョウスケが倒れるシーンを何度も何度も再現して、みんなでリョウスケの気持ちを想像しようとする。

直接的にそうだとは言わないけど、震災があって、津波に飲まれた人たちがいた、ということはテレビで見たけど… そういう人たちが、そのときどんな気持ちだったのか、何を見たのかはわからない、そして少しずつ忘れていく、ということに繋がって思える瞬間があって、背筋がぞっとした。

そう思っていたら、急に役者たちが雑談しはじめる。学生時代のあだ名あるある、みたいなことを話しはじめる。この演劇では役者たちはみんな自分の本名で役を演じていて、その名前のまま兄弟になったり友達になったりしている… 観客も含めて、僕たちに共通する物語として、誰でもあだ名をつけられた経験がある。自分が経験したことは覚えているし、他者の気持ちもわかるような気がする。そういう共通して経験したことのある物語を演じられると、なんか涙が出てくる。 #演劇

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