演劇ぶろ

ままごと「朝がある」

ひとりの女子高生が月曜日の朝の登校途中にくしゃみをした、その瞬間がいったいどのような要素でできているのか、そのことだけを70分かけてひとりの男が説明する。言葉の接続詞だけが浮いてるような奇妙なしゃべりかたが一定のリズムを持ってきて、だんだんラップのように聞こえてくるし、実際にラップになっていく。繰り返される言葉のなかに含まれるドレミファソラシドが抜き出されて音になると、こんなふうに言葉が楽譜になるように、あらゆることが楽譜のように見えてくる。くしゃみはどうして起こるのか、色がなぜその色に見えるのか、毎日のなにげない一瞬にだって、等しく世界の仕組みがつまっていることがわかる。それは、誰にとっても同じだけ朝があるということだ。

DVD には収められてなかったけど、この演劇をもっと簡略化した「弾き語り」バージョンがあるらしくて、観てみたいなぁ。こんなふうに劇場じゃなくて、もっと自分たちの生活に近い場所でやったら、どんなふうに見えるんだろう。そして実験段階のようなこの演劇のむこうには、なにがあるんだろうって思う。

演劇

57

マームとジプシー「カタチノチガウ」

マームとジプシーの演劇は、登場人物がよく死ぬ。その死のシーンは、たとえば脚立から飛び降りるとか、銃で撃たれて倒れるとか、かなりあっさり描かれる。かといって生き残っている人たちも、とにかくなんだかつらそうな目に遭っている。生きたまま死んでいる人たちと、死んだように生きている人たち。ここでは生と死は 1 と 0 で割り切れるものではなく、小数点以下の生死のグラデーションのなかで半分生きて半分死んでいるように見える。それが良いとも悪いとも思わない。ただ、死を見つめるということは、死と表裏一体の生を、鏡越しに見つめていることだと思う。自分たちのささやかな生を肯定したいなら、同じだけの死がすぐそばにあることも認める必要があるのだと思う。 #演劇

2

チェルフィッチュ「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」

コンビニエンスストアというわたしたちの日常のなかにある異常な場所に、店員がいて、店員を管理する店長がいて、店長を管理するエリアマネージャーがいて、客がいて、客じゃない人がいる。そのことを、コンビニの間取り図が敷かれた舞台の上で、飲み物やおにぎりの冷蔵庫の写真がプリントされたカーテンと、MIDI で打ち込まれたような抑揚のないバッハの音楽によって、コンビニを再現しようとする。

搾取だよね、搾取させられてるわけなんだよね、そういうのって要するにさー、まあ、そういう認識たぶん持ってないよねきみたちは、そんな認識ありませんーって顔だもんねー、今の格差ひろがる一方の日本の社会の、こういう最低の現状に対する不満とか怒りとか、特にありませんって感じだもんねー、きみたちの顔見る限りねー、すごいのほほーん、ふにゃふにゃーっとしてるもんねー、そういうのが僕なんかには全然信じられないんだよねー、どうして怒んないのかなって思うんだよねー、もっと怒っていいんだよきみたちとかほんっとにさー、きみたちが怒んなきゃだめなんだよこんな状況さー、変えなきゃいけないんじゃないかなきみたちがさー、怒ってさー、最低じゃないこの状況さー、どうなのかな、最低だっていう認識はないのかなー、最低なんだよこれきみたちの置かれてる状況、賃金とかそういった面でもさー、もっと大事な精神的な面でもさー、最低だよこんな空っぽなさー、無駄に煌々と蛍光灯が照らしつけてさー、ひたすら虚しい場所なわけじゃないコンビニなんてさー、この現代社会のさー、不毛さのさー、まったく、象徴みたいな場所なわけじゃない?

こんな調子の台詞が延々と続くんだけど、こんな極端な人はいない。でも、心のどこかで、そんなふうに思っている自分もちょっとはいるよなって思う。店員が考えてること、店長が考えてること、エリアマネージャーが考えてること、客が考えてることも、それぞれ過剰に偏った考えだけど、どれもすこしづつわたしたちの心のなかにちょっといる。みんな「最低」なコンビニに生きる日本人なのに、どうしてわかりあえないんだろう。 #演劇

1

2014/10/26

演劇を観ているとき、この役者の人は今どういう気持ちで舞台に立っているんだろう?と思うことがある。観客の僕たちは舞台の上で演じられているキャラクターを見ているつもりだけど、実際はキャラクターを演じている役者のからだを見ている。役者の表情や目つき、どんな風にそこに立っているのか、演じられているはずのキャラクターのからだと役者が持つ固有のからだのずれを見たいと思ってしまう。演劇が終わって、舞台の上で役者たちが一列に並んで客席へありがとうございましたと頭を下げるとき、なにか手がかりがないか拍手しながら観察しても、そのずれがどこにあるのかはよくわからなかった。

ダンスなんてまったく観たことなかったけど、Tさんに誘われてインバル・ピント&アブシャロム・ポラック・ダンスカンパニーの「ウォールフラワー」っていうやつを観た。演劇ではからだが動くことに意味を見出そうとしてしまうけど、ダンスはからだを動かすことに意味が生まれないように、からだを動かすことによって生じる伏線を、次のからだの動きで打ち消そうとしているように見えた。舞台の上でキャラクターが生まれないから、からだがどうやってそこにあるのかだけを見ることに集中できる。そうしていると、舞台の上にあるからだとは、意味を持つからだと意味を持たないからだ、そのあいだを行ったり来たりしているということなんじゃないかなというように思えてきた。

ダンスは喋らない。でも演劇には台詞があって、物語があって、からだに意味がある。そのからだが意味を失って舞台の上にあるとき、役者が持つ固有のからだが見えるような気がした。その瞬間を見てみたいと思った。だから、ダンスなんてまったく観たことなかったけど、観てみたらすっごく面白かったよ。 #演劇

16

小指の思い出

野田秀樹が30年前に公演した脚本を、マームとジプシーの藤田貴大が演出した演劇を観た。東京芸術劇場のプレイハウスは、いつもマームとジプシーが公演してるところより3倍ぐらい大きな劇場。役者もテレビで見たことある人たちばっかりで、チケットの価格だって5000円だし全部指定席だ。それでも、アフタートークではマームとジプシーでいつもやってることをやってもしょうがないって言ってたけど、完全にマームとジプシーのいつもの公演に見えたのは、青柳いづみの身体がやっぱりすごかったからだ。発声に、型というか、方法があるというか、口が開いてるのか、開いてるにしてもいったいどこから出ているのかわからないような声に、心が揺さぶられる。普段の生活の中で、あんな人いないからだ。

車に布が被っている。物が置いてあるだけなのに、物と物どうしの関係で意味が生まれる。舞台の上で役者が準備するためにドアをバタンと閉める音がして、日常生活で何千回も聞いたような音が舞台の上で鳴ることで、舞台と自分の距離がすごい速さで縮まって、当たり屋の少年なんていうファンタジーすぎる設定のなかにリアリティを感じてしまう。バンドが、演技をしている人たちの後ろで演奏している。音楽が演技のなかで鳴っていると、演技のなかで鳴る音も音楽に聞こえてくる。台詞を何度も繰り返し、前から後ろからいくつものアングルで演技しなおす。観客の僕たちはいちど席に座ってしまったら動けないから、演技する人たちが回転して何度も演技をやりなおす、そのことで舞台の上にはいくつもの視点があることを表す。

そういった手法的な試みにも驚かされるけど、やっぱりその手法を超えたエモーショナルな見どころがあって、全然わからないんだけど、そのわからなさが良い。わからない身体を観るために演劇を観に行ってるんだ。飴屋法水がハンマーを振り下ろした狂気はまったく意味がわからない。わからないけど、わからないものが観たいんだ。舞台の上の軽乗用車を役者たちが押して車が動きはじめたとき、離陸がはじまったなと思った。この離陸を体験するためにこんなところにひとりで座っているんだ。

公演が終わって、それはそれで演劇的な池袋の東京芸術劇場前の広場を歩きながら、いつだってこういう打ちのめされた気持ちでいたいなと思った。パンフレットもサウンドトラックもマームとジプシーと大谷能生の CD も買った、全部よかった。もうだめだ、戻ってこれない。 #演劇

87
Loading...