小指の思い出

野田秀樹が30年前に公演した脚本を、マームとジプシーの藤田貴大が演出した演劇を観た。東京芸術劇場のプレイハウスは、いつもマームとジプシーが公演してるところより3倍ぐらい大きな劇場。役者もテレビで見たことある人たちばっかりで、チケットの価格だって5000円だし全部指定席だ。それでも、アフタートークではマームとジプシーでいつもやってることをやってもしょうがないって言ってたけど、完全にマームとジプシーのいつもの公演に見えたのは、青柳いづみの身体がやっぱりすごかったからだ。発声に、型というか、方法があるというか、口が開いてるのか、開いてるにしてもいったいどこから出ているのかわからないような声に、心が揺さぶられる。普段の生活の中で、あんな人いないからだ。

車に布が被っている。物が置いてあるだけなのに、物と物どうしの関係で意味が生まれる。舞台の上で役者が準備するためにドアをバタンと閉める音がして、日常生活で何千回も聞いたような音が舞台の上で鳴ることで、舞台と自分の距離がすごい速さで縮まって、当たり屋の少年なんていうファンタジーすぎる設定のなかにリアリティを感じてしまう。バンドが、演技をしている人たちの後ろで演奏している。音楽が演技のなかで鳴っていると、演技のなかで鳴る音も音楽に聞こえてくる。台詞を何度も繰り返し、前から後ろからいくつものアングルで演技しなおす。観客の僕たちはいちど席に座ってしまったら動けないから、演技する人たちが回転して何度も演技をやりなおす、そのことで舞台の上にはいくつもの視点があることを表す。

そういった手法的な試みにも驚かされるけど、やっぱりその手法を超えたエモーショナルな見どころがあって、全然わからないんだけど、そのわからなさが良い。わからない身体を観るために演劇を観に行ってるんだ。飴屋法水がハンマーを振り下ろした狂気はまったく意味がわからない。わからないけど、わからないものが観たいんだ。舞台の上の軽乗用車を役者たちが押して車が動きはじめたとき、離陸がはじまったなと思った。この離陸を体験するためにこんなところにひとりで座っているんだ。

公演が終わって、それはそれで演劇的な池袋の東京芸術劇場前の広場を歩きながら、いつだってこういう打ちのめされた気持ちでいたいなと思った。パンフレットもサウンドトラックもマームとジプシーと大谷能生の CD も買った、全部よかった。もうだめだ、戻ってこれない。 #演劇

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