http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ブルーリボン賞_(映画)
たけしが「一番欲しかった賞」と評したことでも有名なブルーリボン。これをずっと信用してきたが、桐島とサイタマノラッパー3を落としてることが、どうにも許せない。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ブルーリボン賞_(映画)
たけしが「一番欲しかった賞」と評したことでも有名なブルーリボン。これをずっと信用してきたが、桐島とサイタマノラッパー3を落としてることが、どうにも許せない。
良かった。自分は小さい頃からLEGOで遊んでいたんだけど、その頃の気持ちを思い出した。
LEGOは色々なシリーズがある。お城、宇宙、現在の街、海賊の世界、時間を越えて何でもある。はじめは設計書どおりに作って完成させる。その後、作ったものを壊して色々な世界が混ざった後、自分の作りたいものを想像して作っていく。それがとても楽しい。壊して、作っての繰り返しだ。
エンジニアであれなんであれ、ものを作る人達は、そういう過程を通して、成長していくのだと思う。
急に桐島の話をいきなりするけど。
カースト上位出身のやつにはあの映画の面白さが分からないという意見に、震えるほどの怒りを覚えるんだけど。
彼が何で泣き出したか分からないという人って、多分映画に詳しくないとかそういう問題じゃなくて、カースト上位のやつには感情がないとかコンプレックスがないとか泣くわけがないみたいな、そういう馬鹿げたカテゴライズで人を見てるんだと思うけど。
校内一の天才でもカースト上位でもたくさんセックスしてても、コンプレックスなんて山ほどあるんだけど。
あのシーンはそういうことを訴えてたと思うんだけど。
そこがあの映画で一番分かりやすくグッと来るとこだったと思うんだけど。
全編がレゴブロックで作られた世界のなかで物語が展開する映画。レゴブロックで作られた体、部屋、建物、乗り物、それらが組み合わさった世界は、分解すれば元はどれも同じパーツでできている。そんなふうにお互いを交換することができるパーツで描かれる生活の様子を見ていると、体がレゴブロックでできていない僕たちでさえも、同じように交換してしまえる存在であるかのように思えてしまう。具体的でもあり抽象的でもあるレゴブロックの世界に、自分は他人と同じだということ、自分は他人と違うということが、重なる。そんな世界のなかで、この映画は同じでも違ってもどうでもいいじゃないか、と言ってくれる。あぁ、そうだよね!こんなに交換できる僕たちだって全然間違っていないんだよね。そうだよ、子供の頃を思い返してみても、レゴは、いつだって自分たちの想像力を全部肯定してくれたじゃないか。
自分はなぜ映画を観るのか。そんなこと考えながら映画観てないけど、何を期待して映画館へ足を運んでいるのか。きょうこの映画を観ていて、映画は道具なのかもしれないって思った。いま、ここを、よく見ようと虫眼鏡で拡大するような、自分や世界を俯瞰して見下ろすような、そうやって視点を切り替えて見つめるための、映画は道具なのかもしれないって思った。 #映画
わたしたちの日常生活のドラマチック度を0だとして、映画のドラマチック度を100とするなら、そのあいだの一体どのあたりから映画ははじまるのだろう。いやいや、毎日をなんとなく生きていると感覚が麻痺しちゃって、なんかこのままでもあたりまえに生活できるように思えるけど、しかし生活の実体は奇跡の積み重ねだったりする。生活だってよく見ると意外とドラマチックだ。映画のなかのドラマ度がどんどん落ちていって0に近づくとき、いや、もっとマイナスになって生活のドラマ水準を下回ったとき、どうなっちゃうんだろう。生活は映画になれるのだろうか。役者が演技をすること、役者が演技とは関係なく歳を重ねていくこと、これらが同時に記録されているこの映画だったら、映画を撮ることは可能なのか、映画とは一体なんなのか、映画のメカニズムを解明してしまうようなすごい映画になった可能性があったのではないか。しかしこの映画のオチは、12年かけたって映画は撮れなかったという、まったく希望のないさみしさだけだった。そう、映画なんか役に立たないもの観てないで、わたしたちは粛々と毎日を生活していくほかにないのだ。 #映画