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ブラザーに 今すぐなる

2016/04/18

わたしはあなたを知りたいと思う。あなたを知りまくりたいと思う。知れるところまで知りつくしてこれ以上は色々が逃げ込む余地のないところまで知りつくしたいと思ってしまう。あなたのことを思います。わたしはあなたのことを知りたいと何度もそのまま言葉にして思うけれど、知りたいということがいったいわたしの何を満たすことになっているのかも検証もなにも出来ていないのに知りたいという言葉だけではもうわたしはとりあえず次に進めないのです。
(川上未映子「先端で、さすわさされるわそらええわ」)

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2016/04/18

ぼくらはじぶんの存在をじぶんという閉じられた領域のなかに確認することはできない。ちょっとややこしい言いかたをすると、ぼくらには《他者の他者》としてはじめてじぶんを経験できるというところがある。ぼくらはじぶんをだれかある他人にとって意味のある存在として確認できてはじめて、じぶんの存在を実感できるということだ。ぼくがそばにいないとあのひとはだめになる、何もできないけれどただそばにいるだけであのひとは安心していられる、ぼくが病気かなんかで欠席するととたんにクラスは活気がなくなる……理由はなんでもいいのだ。要するにじぶんの存在が他者にとってわずかでも意味があること、そのことを感じられるかぎり、ひとはじぶんを見失わないでいられる。(中略)たとえ一方通行的な関係であっても、自他はどこまでも相互補完的なものだ。生徒を規定しない教師はいないし、教師を規定しない生徒もいない。とすれば、「先生はぼくらがいるところでもいないところでもいつも同じ態度だ」と感じさせる立派な先生によりも、点数のつけまちがいをしたり、遅刻をして生徒をいらいらさせる欠点だらけの先生に習うほうがあるいは幸福なのかもしれない。すべてをそつなく正確にこなす看護師さんよりも、注射の針をなかなかうまく刺し込めない看護師さん、食事や検温の時間を忘れたり食器を落としたりと、どじばかりしている看護師さんのほうが、患者にとってはありがたいのかもしれない。なぜなら、そのような先生や看護師さんは、生徒や患者をたえず心配させたり、怒らせたり、疑心暗鬼にしたりすることによって、じぶんを他者にとって意味あるものとして経験させてくれるから。
(鷲田清一「ちぐはぐな身体」)

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2016/04/14

トイレが全然空かないんだけど、生きてる間あと何回「漏れちゃうかも」という焦燥感と向き合わねばならないんだろうか。

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2016/04/12

今の会社に転職する前、面接受けてた会社、雰囲気いいなぁと思ってたんだけど、何故か断った。
こないだ飲んでる時ちょうどそこの会社と思しき人たちが隣になって、話聞いてたら、ああここに入らなくてよかったなぁと思ったので、何故かとか、なんとなく、とかは割りと信じていいような気がする。なんとなく。

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2016/04/11

夕方くらいからすごく頭重くて、こりゃ熱でてきたかも…って思ったけど、肩こりひどいだけだった。整体いったら治った。

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