2016/04/18

ぼくらはじぶんの存在をじぶんという閉じられた領域のなかに確認することはできない。ちょっとややこしい言いかたをすると、ぼくらには《他者の他者》としてはじめてじぶんを経験できるというところがある。ぼくらはじぶんをだれかある他人にとって意味のある存在として確認できてはじめて、じぶんの存在を実感できるということだ。ぼくがそばにいないとあのひとはだめになる、何もできないけれどただそばにいるだけであのひとは安心していられる、ぼくが病気かなんかで欠席するととたんにクラスは活気がなくなる……理由はなんでもいいのだ。要するにじぶんの存在が他者にとってわずかでも意味があること、そのことを感じられるかぎり、ひとはじぶんを見失わないでいられる。(中略)たとえ一方通行的な関係であっても、自他はどこまでも相互補完的なものだ。生徒を規定しない教師はいないし、教師を規定しない生徒もいない。とすれば、「先生はぼくらがいるところでもいないところでもいつも同じ態度だ」と感じさせる立派な先生によりも、点数のつけまちがいをしたり、遅刻をして生徒をいらいらさせる欠点だらけの先生に習うほうがあるいは幸福なのかもしれない。すべてをそつなく正確にこなす看護師さんよりも、注射の針をなかなかうまく刺し込めない看護師さん、食事や検温の時間を忘れたり食器を落としたりと、どじばかりしている看護師さんのほうが、患者にとってはありがたいのかもしれない。なぜなら、そのような先生や看護師さんは、生徒や患者をたえず心配させたり、怒らせたり、疑心暗鬼にしたりすることによって、じぶんを他者にとって意味あるものとして経験させてくれるから。
(鷲田清一「ちぐはぐな身体」)

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