2016/03/06

会場に入るとカチカチとあちこちから音がしていて、その音は、どうやら壁に掛けられたモニターの前に置かれている、よく街角で交通量を測るために人を数えているような、あるいは車のダッシュボードにあってこれまでの走行距離を数えているような、数字が表示されている小さな箱 ── カウンターから鳴っていることがわかる。モニターとカウンターは1つずつ4セット用意されていて、ひとつ目のモニターにはパソコンのスクリーンセーバーみたいにさまざまな濃度の青色の画面が横や縦にワイプして切り替わっていて、その画面が切り替わるたびにカウンターがひとつ数えている。ふたつ目のモニターには2本の手だけが写っている映像が流れていて、たぶんじゃんけんのようなことをしているのだけど、勝敗がついても終わるわけでもなく、ただじゃんけんのような動作を延々と続けている。ここではカウンターは指の数の合計を数えていて、たとえば手がチョキとパーだったら2と5で合計7として数えていく。最後の映像は2つのモニターがくっつけて設置されていて、どちらのモニターにもスポーツウェアのような服を着た女性が、ひとりで卓球のラケットでピンポン玉をリフティングしている映像が、これもループして延々と流れている。ただし、2つの映像は2台のちょっとずれた位置にあるカメラで撮影されているようで、映像が撮影された時間は同期しているものの、モニターによって微妙に角度が異なって見える。カウンターはラケットにピンポン玉がバウンドした瞬間を1と数えていて、しかし映像の画角の外でバウンドしたときには数えない。同じ映像でもモニターによって見え方が異なっていることから、片方のモニターでは画角のなかでバウンドしているのでカウンターは数えるが、もう片方では画角の外なので数えられないということが起こっていて、ふたつのカウンターが数えた値は異なっている。

「見た目カウント」は、ただいま神保町の SOBO という場所で展示されている時里充さんの作品だ。さまざまな見方ができるこの作品から、ぼくは、ふたつ気がついたことを書いておきたい。

まず、最後のピンポン玉のリフティングの映像、うつる女性の手首にヘアゴムのようなものが巻いてあったこと。もしこの映像が、カウンターが数えている現象の、ピンポン玉がラケットにぶつかる瞬間だけが必要なのだとしたら、このヘアゴムは余計な情報だ。いや、ヘアゴムだけじゃなく、なぜ卓球のスポーツウェアのようなものを着ているんだろう。そもそも、どうして女性なのか。時里充さんの彼女なのか…(おそらく違う)とか考えてしまう。それらはほんとうにどうでもいいことなのだけど、それでもカメラで映像に収めるということは、撮りたいと思っているもの、必要なもの、それ以外のどうでもいいことを引き受けることだ。カウンターがカチカチ音を立てながら特定の意味だけを数えることで、映像を見るぼくたちは特定の意味へ注意を向けさせられるけど、同時に映像にはそのこと以外のたくさんの意味が写り込んでいることに気づかされる。このことは、画角のなかのできごとしか数えないカウンターの姿勢がつくっている、画角というスコープを定めることによって見えてくるものなのかもしれない。

また、ぼくは2月20日にこの作品を見て、よくわからなかったので、3月5日にもういちど見にいったんだけど、そのときに2週間ぶりに聞くカウンターの音が、なんだか疲れているように思えた。…ということは錯覚かもしれないのだけど、そう思えるくらい、この作品の一生懸命ひたすら数えつづけるカウンターは、健気でかわいく見える。そんなふうに見えるのも、このカウンターがマイクスタンドのようなものにくくりつけられて自立していて、なにかの生物みたいだからなのかもしれない。会場にいた時里充さんの話によれば、カウンターは作品を構成する一部でありながら「鑑賞者」としても存在しているということだったのだけど、それはすごくおもしろいと思った。よく作品は鑑賞されてはじめて作品になるみたいな話があるけど、なるほど、作品をつくるときにいっしょに鑑賞者もつくっちゃえばいいのか。

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