2016/02/11
ポレポレ東中野で「ヤクザと憲法」を観ながら、すこし前に村上春樹がなんかの賞を受賞したときにスピーチしていた言葉を思い出した。
高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ
この言葉の意味がよくわからないと思っていたけど、「ヤクザと憲法」を観ていたら、なんとなくわかった気がした。銀行の口座を作る、ローンを組む、保険に入る、幼稚園に入園する… あらゆる契約が反社会勢力の人たちはできなくて、そうではないわたしたちと同じように生きることができない。その意味で、ヤクザに関わる人たちは「卵の側」にいる。
映画のカメラは、途中から、住み込みでヤクザの事務所の雑用をする、ひとりの青年にクローズアップしはじめる。自分からヤクザになりたいと思って事務所を訪れた青年は、見るからに不器用で、具体的なエピソードを語ることはないものの、これまで「卵の側」として過ごしてきた過去を感じさせる。
または、帰化していないから選挙権がないヤクザのおじいさん。または、事務所で暇そうに世間話をしたりタバコを吸っている、小指が詰められたヤクザのおじさん。この映画に登場する人たちはみんな「卵の側」の人たちだ。もちろん、犯罪に加担する暴力団は認められる存在ではない。しかし、認められないことは迫害していい理由にはならない。
そこで、「壁」に立ち向かう手段として、カメラという武器がある。カメラに自分たちの弱いところを見せることが、ここでは「卵の側」の人たちにとって「壁」とたたかうことになるのだ。
映画が終わって、新宿の紀伊國屋に行くと人文書のフェアをやっていて、岸政彦の「断片的なものの社会学」という本を手に取った。あとがきを読むと、こんな言葉が書いてあった。
いま、世界から、どんどん寛容さや多様性が失われています。私たちの社会も、ますます排他的に、狭量に、息苦しいものになっています。この社会は、失敗や、不幸や、ひとと違うことを許さない社会です。私たちは失敗することもできませんし、不幸でいることも許されません。いつも前向きに、自分ひとりの力で、誰にも頼らずに生きていくことを迫られています。
私たちは、無理強いされたわずかな選択肢から何かを選んだというだけで、自分でそれを選んだのだから自分で責任を取りなさい、と言われます。これはとてもしんどい社会だと思います。
この言葉は、「ヤクザと憲法」と、または村上春樹のスピーチと、この時代に横たわるなにかを共有しているように思った。この時代に横たわるなにかとは、なんだろう。もし、この映画がもっと遠くに行けるとしたら、どんなところへ行けたんだろう。正しい言葉によって迫害を許している社会が、カメラによって告発される映画である「ヤクザと憲法」に、エンドロールのあとに10分の時間が残されていたとしたら、なにが見えたんだろう。