2015/11/20

高橋源一郎の「ニッポンの小説」シリーズに出会って、ここ数週間ずっと、ちょっとずつ、読み進めてる。それで思うのは、わからない自分について書くこと、考えてる自分について書くこと、なにかに辿りつこうとして、できなくて、というより本当は辿りつけるんだけど、それをやめて、また出直すこと、そんなことができるんだっていうこと。

カルヴィーノならば、これらに共通する事柄を、さっと見つけ出し、もっとも適当なことばにまとめ、それから、おもむろに、その本質を解き明かすところだろうが、ぼくには無理だ。
ニッポンの小説やニッポンのことば、その現在が、流動している様子をただ呆然と眺めているだけである。
まとめたくない、のかもしれない。
混乱は混乱のままに、と内心では思っているのかもしれない。

この、「呆然と眺めている」という姿勢がいい、と思う。答えを見つけるわけでもなく、なにをするわけでもなく、なにもわからないとしても、そこにいることができたらいいと思う。

そのかたわらに言葉があって、書くことで気持ちがすこしでも楽になるなら、それを詩と呼ぶのなら、僕は詩を書きたい。

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