はじめまして。オイラは日本の豊かなブログサービスです。
ブラザーに 今すぐなる

恥ずかしい話

26年間生きていて、初めてちゃんとお店で胸のサイズを測ってもらいました…思っていたサイズと全然違ったんですけど…

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2016/03/23

週末尾道に行くことにした。
移住して畳職人になった友人宅を訪ねる。
ちょうど桜も咲いてるかな。
去年の春は京都の喫茶店で玉子サンド食べて美味しかったな。

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2016/03/22

こんな天気のいい日には、会社とは逆向きの電車に乗って景色を眺めながらどこまでも行きたいと思うけど、自分が乗るのは始発駅で、目的地は終着点。

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2016/03/21

ゆ… ユニクロに行きてーー!!

って書きたかっただけなのに、三回も「ぬにくろ」って打ち間違ってもうあんまり行きたくなくなった連休最終日。

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2016/03/21

田中功起という人の個展を見るために、初めて水戸芸術館へ行った。展示はとてもおもしろくてたくさんのことを考えさせられたけど、うまく整理できず、僕の語彙や知識が足りないのもあって、感想を書くのが難しい。だから、手がかりとして、気がついたことをいくつか断片的に書くことで、自分が思ったことを俯瞰して見ることができたらいいな。

まず、水戸が遠い。行きは常磐線の特急で1時間半、帰りは高速バスで渋滞してたのもあって3時間半かかった。だから、その移動する時間にも田中功起さんの本を読んだりして気分を高めたり、展示を思い返す時間になった。これが都内で展示されていたら、違った感想もあったかもしれない。

現代美術でビデオを展示するとき、観客は展示室にやってきたときに再生されていた映像を観るので、ビデオが再生されはじめたときにやってきたみたいな偶然でないかぎり、どうしても途中から観賞することになってしまう。そのために、だいたい展示室ではビデオはループで再生されていて、観客が興味を持ったらビデオのはじまりを待って最初から観ることができるし、興味がなければ次の作品へ行ってしまう、ということになっている。ビデオを途中だけ観て判断することは、いわば絵の一部分だけを観て判断するようなもので、だから判断できないと思うんだけど、それでも映像という画角のほかに時間軸を持ったものを、絵や彫刻と同じように展示しようとするなら、そういうやりかたが主流になっている。

じゃあ現代美術のビデオ作品は映画館で上映されるべき、みんなが椅子に座ってブザーの音が鳴ってから再生されるべき、というわけでもなくて、現代美術のビデオ作品は(いろんな作品があると思うけど)、どうやってその映像が撮影されたのかという物語が作品なのであって、むしろ映像は作品を制作するプロジェクトの副産物として扱われることがあって、映画やドラマのように、もしかしたら最初から最後まで一生懸命1フレームも見逃さないと鑑賞できないようには作っていないのかもしれない(そういったビデオの展示のやりかたがビデオに影響を与えているのかもしれない)。

とにかく驚いたのは、突然はじまること、そして突然おわること、これが映像にはできるんだ。脈絡なく、知らない人たちが、カメラの前で料理を作ったり、詩を読んだり、夜の街を歩いたり、なんならバスに乗ってるだけだったりする映像が突然はじまって、一定時間でおわって、またはじまる。個人的な話として、働いてる会社が同じビルの4階から13階に移転して、それで毎日エレベーターに乗る時間が長くなって思うのは、エレベーターのドアが開いてエレベーターホールの様子が見えるとき、そこにいる人たちの物語が突然はじまって、やがてドアが閉まっておわるということで、それは電車が止まったときとか、車に乗って信号が変わるのをまってるときとかも同じ。

田中功起さんの近年の作品、2012年の1台のピアノを5人で弾く様子のビデオ以降は、映像を撮影することを仕事にしている人たちと制作するようになって、画角が映画のそれだったり音声がガンマイクできちんと録れていたりして、また田中功起さん自身が行っている編集も、同時に録音された音声を切らずにカットを割っていたりすることが、現代美術のプロジェクトの副産物というよりも、映画やドラマに近づいた映像を観ることが主体になった作品だと思う。たとえば何も説明されずに観ても観ていられるか、観ていられるかというのは興味が持てるかということで、そのビデオが撮られた経緯や映像のなかで話されていることと切り離して、映像のなかにたくさんの見るべきポイントがうつりこんでいるのがおもしろい。

ふつう、前回の展示で壁に空けた穴とか埋めるけど、たぶん補修しないで展示してたのがおもしろかった。前回の見たことない展示では、額がこのあたりにあったのかなとか想像する。モニターが置いてあった展示台とかも、倉庫にあったやつを並べてるのかな?

水戸芸術館では、展示の監視員のことを「フェイス」って呼んでるのがおもしろかった。コンサートホールなども併設してあるし、決して監視する仕事だけじゃないのかもしれないけど。でも、たしかによく考えると、展示室でいちばん先に目に入るのって、椅子に座ったりしてる監視員の人たちなのかもしれない。また、作品をいちばん鑑賞しているのも、フェイスの人たちなんだろうか。

脈絡なく、突然なにかをはじめることができれば、それは物語として成功だと思う。それは、突然はじめられるくらい、突然はじまっても見ていられるくらい、強い物語だと思うから。それは、誰もが経験したことがあるけど、まだ名前がついていないような物語なんじゃないかと、思っているんだけど…。僕は、それが映画、または現代美術、あるいは詩、それともインターネットだと思う。

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